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幕末三舟

幕末の三舟(ばくまつのさんしゅう)は、幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の3名の総称。
幕末、徳川慶喜から戦後処理を一任された勝は、官軍の西郷隆盛との交渉役に高橋を推薦するが、高橋は遊撃隊(慶喜の身辺警護にあたる)の隊長を務めており、江戸を離れることができなかった。代わりに推薦されたのが、高橋の義弟にあたる山岡であった。
慶応4年(1868年)3月9日、山岡は西郷との会談で、江戸城開城の基本条件について合意を取り付けることに成功した。その後、勝が単身で西郷と交渉、同年4月11日、江戸城は無血開城されることとなる。
江戸を戦火から救った勝、山岡、高橋の名前にいずれも「舟」がつくことから、この3人を「幕末の三舟」と称するのである。

伊藤博文

伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の政治家である。
明治憲法の起草に関わり、初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長・韓国統監府統監・貴族院議長・兵庫県知事(官選)を務めた。立憲政友会を結成・初代総裁。元老。位階勲等は従一位大勲位。爵位は公爵。称号は名誉博士(エール大学)。死後に大韓帝国より功績を讃えられ、「文忠公」の諡号が送られた。
幼名は利助、のち俊輔(春輔、舜輔)とも称した。「春畝(しゅんぽ)」、「滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)」などと号し、「春畝公」と表記されることも多い。名の博文を「ハクブン」と有職読みすることもある。
アジア最初の立憲体制の生みの親であり、また自ら作った制度の下で政治家として活躍した最初の議会政治家として、その功績は現在に至るまで世界各国で高く評価されている。

谷文晃

谷文晃(たに ぶんちょう)
江戸中期の文人画家で下谷根岸で生まれる。田安家の家臣で漢詩人、谷麓谷の子である。名は正安、字は文晃のほか、子方、文五郎、号は画学斉、写山桜、文阿弥などといった。
元.明.清画や狩野派、土佐派、文人画、西洋画など各派の手法を研究し、関西文人画に対して江戸文人画の重鎮となった。下谷二長町に居を構え、多くの弟子の指導にあたった。門人として、渡辺華山、立原杏所、太田蜀山人らがいる。
文晃は松平定信に従って諸国を巡歴し、「集古図絵」「集古十種」の挿絵を描いた。このほか「名山図絵」」「本町画纂」「公余探勝図鑑」「五柳先生図」などがあり、人物、山水、花鳥、虫魚を得意とし、特に水墨山水に妙を得ていた。天保十二年(1841)12月14日没。享年78歳。源空寺に葬る。文化年間には酒井抱一、亀田鵬斎とともに江戸の文墨界を代表した。

三島中州

玄関前の文字 三島中州 (みしまちゅうしゅう)(1830〜1919)
漢学者、備中松山藩士。名は毅。字は遠寂。通称は貞一郎。号は桐南、中洲、絵荘。14歳で山田方谷に学び、のち、斎藤拙堂、佐藤一斎に教えを受けました。30歳で備中松山藩に仕え、有終館学頭となります。板倉勝静が老中になると顧問となり、維新後の明治3年(1869)備中松山城下に虎口渓舎を開きました。43歳の時、明治政府に応じて、司法官となり、また、二松学舎を設立し漢学の振興に努めました。東京帝国大学教授、東宮侍講、宮中顧問官などを歴任しました。

国定(三代豊国)

版画 伊勢の海士 長鮑制之図 (いせのあま のしをせいすのず)
国定 (三代豊国)(くにさだ さんだいとよくに)
初夏の頃、志摩地方では鮑(あわび・鰒とも表記)漁が盛期を迎えます。古来、鮑漁は海深く潜る海士・海女(あま)によって行われ、志摩地方では女性がその役割を果たしてきました。江戸時代の風俗を描いた浮世絵には、このような海女を題材としたいくつかの作品がみられます。
 この浮世絵もその一つです。江戸時代末期に多くの俊才を排出した歌川派(うたがわは)の中にあって国芳(くによし)・広重(ひろしげ)とならび当時の浮世絵界を代表した歌川国定(うたがわくにさだ)(三代豊国・さんだいとよくに)の作品です。国定は、舞台の熱演を活写した役者絵、粋(いき)の美意識をよく表現した美人画のみならず、生活の中の何気ないしぐさにまで及ぶ風俗描写に優れ、史上最も多くの作品を残した浮世絵師といわれています。
 作品は、三枚の続き物で、現代のハイビジョンテレビに近い横長の画面によって、海女を乗せた小舟や帆船が遠くに浮かぶ凪いだ海原を背景とする広々とした海浜風景を描き出しています。近景には、画面中央から右にかけて着流しの粋な若い男とあでやかな着物の女性を配し、その視線が向かう画面左半分には作品の主題である三人の海女が筵(むしろ)に座って長鮑(のし)(熨斗鮑・のしあわび)を作る姿を描いており、地面に暗色のぼかしを加えることによって明るい海浜風景の中でこれらの人々をいっそう際立たせています。
 三人の海女による長鮑(熨斗鮑)の加工の手順は、まず、右側の海女が海から水揚げされた新鮮な鮑を手に持ち、貝殻と見の間にヘラを差し込んで身を取りはずします。前屈みになって一気に力を加えようとする海女の手前には、取りはずされた身が並べられ、右脇や後ろに内面が青光りする貝殻が積まれています。次に、左端の海女が小刀を使って取りはずされた身の外側から渦巻き状に剥(は)いで、細長い帯状のものにしていきます。手前には剥ぎ終わった細長い帯状の鮑が置かれ、中央の海女はこれらを束ねて揃えています。これを背後の砂浜で筵上に並べて天日干しします。その後、生乾きの頃に竹筒などでこれを薄く伸ばし、よく乾燥させると熨斗鮑が完成します。このように作品から一連の長鮑加工の様子を知ることができます。なお、この作品の構図・内容は、蔀関月(しとみかんげつ)の『日本山海名産図会(にっぽんさんかいめいさんずえ)』の挿図「長鮑制」とよく似ています。
 かつて、熨斗鮑つくりは各地で行われていましたが、現在では伊勢神宮へ見取鰒や玉貫鰒(熨斗鰒の製品)などを納める鳥羽市国崎町の人々によって、その伝統の技が受け継がれているのみです。その貴重な技術は、県指定無形民俗文化財に指定されています。

生方清逸 宋柴山

扇子の絵 生方清逸(うぶかたせいいつ) 画家
安政2年(1855)沼田市岩本に生まれる。青木翠山に画を学ぶ。

三保の松原 宋柴山
沈南蘋派を伝えた江戸時代中期の絵師。